人とは違ったキャリア(職歴)

大人になってからの私(Kumiko)の人生(キャリア)も、世の多くの人とはちょっと違います。まずは国家公務員として、社会人生活をスタートしました。そして、非営利法人(学校法人・社会福祉法人)で働き、その後、営利法人(株式会社)で働き、今は経営者です。
普通に考えたら、ちょっと不思議ですよね〜。転勤(人事異動)も多かったので、同じ仕事を続けてしていたのは、最長2年です。昔は、最低3年は同じ職場にいたいと思っていたのですが、今ではそれが普通になりました。毎年のように引っ越していた時期もありました。友達から、今年はどこから年賀状が届くのだろう?って思われていたこともありました。(今はどこに住んでいるのだろう?という意味です。)では、簡単にどんなことをしてきたかご紹介します。


公務員らしくない公務員?

大学を卒業して、私(Kumiko)は労働省(現:厚生労働省)の職員になりました。とはいっても、霞が関で働いていたわけではありません。現場で働きたかったので、大阪のハローワークで働きました。今でも私は現場の方が好きです。オフィスで一日中パソコンの前というのは、すごく苦手です。
合計5か所のハローワークで、助成金の担当をしたり、職業相談の窓口にいたり、日雇い労働者の担当をしたり、セミナーの企画をしたり、いろんな経験をしました。そこで、いろいろな人と出会いました。年齢的にも10代〜70代、淀川の河原で寝起きしている人から会社の社長さんまで、様々な人生があり、様々な考え方がありました。こんなにもいろんな生き方があるのだと初めて知りました。もっと早くこのことを知っていたら、もっと柔軟に自分の人生を考えることができたのにと思いました。でも、残念ながら、社会に出る前に、そういうことを教えてくれる人は、私の周りにいませんでした。

 

ハローワーク勤務時代のエピソードについては、また別の機会に書きます。 → こちらから

 

公務員というと、いわゆる「お役所仕事」的なイメージで受け取られることが多いのですが、私の場合はどうもそういうタイプではなかったみたいです。職場以外で知り合った方に「ところでお仕事は何をされていますか?」と聞かれ、「公務員です。」と答えると、全然そういう風には見えないと言われました。それはどういう意味だったのでしょうか?(笑)
当時、ハローワークでは、民間企業を定年や早期退職優遇制度で退職された中高年の方が、非常勤職員として働いていました。私はそういう方々と仲良くなりました。(親子ほど年が離れているのに生意気な!と思われていたことでしょう。)その方々は、長年公務員をしてきた先輩や上司とは、異なったものの見方、考え方をされることが多かったです。私はその方々からも、仕事の仕方を学びました。やっぱり、そのころからちょっと普通ではなかったのですかね〜(汗)


非営利活動法人(学校法人・社会福祉法人)では…

公務員を退職した後、非営利活動法人で働きました。いまだに言われます。公務員を辞めるなんて「もったいない」と。それが世の中の普通の人の考え方なのでしょうね。「もっと楽に生きればいいのに…」とも言われます。たぶん、不器用な生き方をしているんでしょうね。学校を卒業して10年以上たってから高校の教員をしたので、家にこもって必死になって勉強しました。昔は得意だった科目も、すっかり忘れていました。教員と言っても、単位制高校でしかも分室勤務なので、普通の高校の教員とは少し違うかもしれません。

 

教員時代の思いではたくさんあるので、また別の機会に書きます。 → こちらから

 

その後、社会福祉法人の事務局で働きました。障がい者の入所施設やグループホームの運営、就労支援などを行っており、約100名の職員がいる比較的大きな法人でした。行政機関に提出する書類や規程類の作成など総務的な仕事から、現場での就労支援にいたるまで、いろいろなことを幅広くしました。ちょうど障がい者の就労の場として、宅配のお弁当をつくる事業を立ち上げるところだったので、保健所への届け出や備品類(なべやフライパンなど)の購入なども、担当の調理師と一緒に行いました。最初の半年くらいは、週に半分は調理の現場に入っていました。この時期が、一番いろいろなことをやっていたかもしれません。


やっと民間企業デビュー!

30代半ばにして、初めて民間企業で働きました。でも、場所は瀬戸内海の小さな島「因島」でした。最初「因島」と聞いた時、地理の苦手な私は「何県だったかしら?」と思いました。広島県尾道市、しまなみ海道が通っていて、本州から2番目の島です。海がとってもきれいで、毎朝、通勤で因島大橋を渡るとき、その輝く光景に感動していました。最初は半信半疑で応募した会社でしたが(あまりにも環境が違いすぎてやっていけるのだろうかと…)、上司の方がとてもいい方で、この方のもとで働きたいと入社を決めました。本社の総務勤務です。ここで初めてマイカーを持つことになります。
生活に慣れるまでの半年間は大変でした。慣れると近くに観光地もたくさんあり、生活を楽しむことができました。いろいろと遊びのスケジュールを入れ始めた途端、東京転勤が決まりました。入社してまだ9ヶ月でした。東京では、ダイレクトマーケティング事業部と言って、通信販売を担当する部署に配属されました。そこで、私の生活は一変しました。都会の空気が合わず、体がいろいろとアレルギー反応を起こして大変でした。


社長直下で働きたい!

だんだんとものの見方・考え方が成長してきた私(Kumiko)は、社長直属の環境で働くため、規模の小さな会社に応募し始めました。最初は、新宿にある不動産屋さん、次に省エネ設備を扱う会社で働きました。小さな会社だから、できることは何でもやると言った感じです。全く畑違いの業界でしたが、これまでもいろいろなことをしてきたので、慣れていると言われれば慣れています。取引先の社長さんにかわいがってもらって、いろいろ教えてもらいました。経営者というのは人生(仕事)を楽しんでいる人が多いというのが、私の印象でした。
以前から何人もの人に「自分で事業をしたらどうですか?」と言われていたのですが、この頃になってなんとなくその意味が分かってきました。それがどういうことかについては、また別の機会に…


未知の分野だからこそ、気づくこともある!

いろいろな仕事をしてわかってきたことは、業界の常識は世の中の非常識である場合があるということです。私(Kumiko)は、どこに行ってもその世界にどっぷりつかって、そこにいる人たちと同じように考え、話すことはできませんでした。出る杭打たれる日本の社会の中にあって、それを何か良くないことのように感じていた時期もありました。
どこに行っても、どうしても目立ってしまいました。昔は、それが嫌で嫌でたまりませんでした。人目に付くことを恐れ、いつも目立たなくいることばかりを考えていました。絶えず緊張して、いつも疲れていました。いろいろな仕事をしてきたがゆえに、これといった専門性がないことも、気になっていました。ほとんどの会社・仕事で経験年数が求められる中、不利な立場にありました。
今、会社を始めてみて、それらが有利に働くこともあると気づきました。目立つということは、覚えてもらえるということです。営業活動のスタートは、まず、覚えてもらうことからですので、そういう意味では有利なのかもしれません。他の人と違う考え方をするということは、何か新しいものを生み出す、変革する可能性があるということです。そして、起業して間もない頃は、何でも一人でしなければなりません。幅広く、いろんなことをしてきたので、今、どうにかなっています。
それぞれの人に、それぞれの役割(使命)があるのだと思います。いろんな個性をうまく生かすことができたら…。だから、今の会社で人材採用を行うに当たり、原則として、資格や経験を問わないことにしました。現在、経理処理に「弥生会計」という経理ソフトを使っています。会社を始めてから初めて使ってみたのですが、丸2日でなんとなく使えるようになりました。経理職の募集で、よく経理経験や会計ソフトが使えることが条件とされていますが、必須条件にする必要があるのかなと最近思います。
常識を疑ってみよう、自分の頭で考えよう、それが私の会社経営のモットーです。